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【無料動画】志村けんとドリフの大爆笑物語の見逃し配信と無料視聴方法!

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【無料動画】志村けんとドリフの大爆笑物語の見逃し配信と無料視聴方法!

フジテレビで放送されるドラマ「志村けんとドリフの大爆笑物語」の見逃し配信、無料フル動画を無料視聴する情報や過去放送回のことなどについてなどを紹介したいと思います!

ハムレット
この「志村けんとドリフの大爆笑物語」は、志村けん(山田裕貴)がいかりや長介(遠藤憲一)に弟子入りしドリフに加入して稀代のコメディアンになるまでの汗と笑いと涙の半生を福田雄一監督がドラマ化とあって話題です!

だからこそ、「志村けんとドリフの大爆笑物語」を楽しむための方法をご紹介したいのですが、「志村けんとドリフの大爆笑物語」は現在動画配信されておりません。

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ドラマ「志村けんとドリフの大爆笑物語」について

昨年3月、日本を代表するコメディアンの一人、志村けんさんが新型コロナウイルス感染症に伴う肺炎のためこの世を去った。日本中が悲しみに暮れたその訃報は、海外メディアでも取り上げられた。そして亡くなった今もまだ、その人気は衰えることはなく、DVDやYouTubeなどで若者からの支持を得ている。また、10月2日(土)~17日(日)に東京・松坂屋上野店で行われた展示イベント「志村けんの大爆笑展」は、大盛況。不動の人気ぶりはここでもうかがえる。

その志村さんの半生を描いたドラマ、『志村けんとドリフの大爆笑物語』を、フジテレビで12月に放送することが決定した。

志村さん役を演じるのは、映画『東京リベンジャーズ』の龍宮寺堅(りゅうぐうじ・けん)役、『ハコヅメ~たたかう!交番女子~』(2021年7月期/日本テレビ系)の山田武志(やまだ・たけし)役での好演が記憶に新しく、人気、実力共に注目を集め、今最も旬な俳優の一人、山田裕貴。山田は今作が、フジテレビ系ドラマ初主演となる。さらに脚本・演出を手がけるのは、映画・ドラマ『今日から俺は!!』(ドラマ・2018年10月期/日本テレビ系、映画・2020年公開)、映画『ヲタクに恋は難しい』、『新解釈・三國志』(共に2020年公開)など日本のエンターテインメント界をけん引する福田雄一。福田がフジテレビ系ドラマを演出するのは『33分探偵』(2008年8~9月)以来、脚本を手がけるのは『東京DOGS』(2009年10月期)以来のこととなる。山田の福田作品への出演は『聖☆おにいさん』(2019年6月配信他)以来となるが、今回この二人がタッグを組むことで、どのような新しい化学反応が生まれ、日本中を“笑い”の渦に巻き込んだコメディアン・志村けんさんのドラマがどのようにでき上がるのか、楽しみだ。なお、ドラマの撮影はすでに終了している。

ドラマは、志村さんがコメディアンになることを決意し、1968年、高校卒業間際にバンドのボーヤ(付き人)としてザ・ドリフターズに携わるところから始まる。見習い時代の修業の日々、そして1974年にメンバーの一員となってから1990年代までの、想像を絶するような過酷なスケジュールや、人気の裏に隠された挫折と苦悩、葛藤を描く。また、毎週行われていたコントのネタ会議の様子や、徐々に築かれていくメンバーとの友情も明らかに。さらにドラマには、当時人気を博した『8時だヨ!全員集合』(1969年~1971年3月・1971年10月~1985年/TBS系)や『ドリフ大爆笑』(1977年~/フジテレビ系)の懐かしい一場面ももちろん登場!山田をはじめとしたメンバー全員による、『ドリフ大爆笑のテーマ』や『ドリフのズンドコ節』。また、名作と言われる数々のコントシーンにも注目だ。

なお、両番組の番組最高視聴率は、『8時だヨ!全員集合』は、50.5%(1973年4月7日放送)、『ドリフ大爆笑』は、40.4%(1980年12月23日放送)と、共に驚異的な数字。特に『8時だヨ!全員集合』の50.5%は、日本のバラエティー番組史上、いまだ、最高視聴率である。
(共にビデオリサーチ調べ、関東地区、世帯視聴率)

今回の話を聞いた時山田は、「楽しみよりもプレッシャーの方が大きかった」という。プレッシャーからか、福田からは現場で、「目がバッキバキだよ」と言われる程の緊張ぶり。しかしその緊張ぶりはまさに、ザ・ドリフターズの見習い時代の志村さんとオーバーラップしているようにも見える。役を演じるにあたって、コントシーンを何度も繰り返し映像で見て研究したと言う山田。そして撮影の合間も寸暇を惜しんで、スタッフ相手にコントの練習に励むほど、熱心に取り組んでいた。

日本中に笑いを届け、今の困難な時代に大きな勇気を与えてくれた、志村けんさん。彼の半生を描いた、『志村けんとドリフの大爆笑物語』をお楽しみに。また、後日発表されるザ・ドリフターズのメンバーを演じるキャストにも是非ご期待いただきたい。

山田裕貴のコメント

お話をいただいたときは、“本当に僕ですか?僕で大丈夫ですか?”と、信じられませんでした。楽しみよりもプレッシャーの方が大きかったです。実はコントシーンの撮影日が、31歳の誕生日でした。すごくうれしくて、もしかしたらそれは志村けんさんからのプレゼントだったのかなと思います。ドラマの中のセリフで、“笑いたがっている人、笑わせましょうよ”とありますが、そういうドラマになればいいなと思っていますし、その日1日は、志村けんさんに変わって皆さんを笑顔にできるとうれしいです。

脚本・演出・福田雄一のコメント

この企画のお話をいただいたときはとてもうれしかったです。ただ、次の瞬間、とてつもないプレッシャーにさいなまれました。ドリフの歴史の一端を担うことができるだろうかという不安と、僕自身、志村けんさんへの思い入れがとてつもなく強かったので。何しろ、志村さんは少年時代からずっとテレビの前で見てきた大スターでしたから。

引き受けさせていただく覚悟をしたのには理由があって、『となりのシムラ』でご一緒させていただいたときに、志村さんも会議から参加してくださり、一緒にコント作りをしながら笑いを生み出す志村さんの姿勢や笑いへのこだわりを間近で感じさせていただき、やっぱり大好きで、また一緒に作りたいという思いがあったからです。

本当に大変なプレッシャーの中でしたが、山田裕貴さんはじめ役者の皆さんが本当に頑張ってくれましたし、スタッフも本当に素晴らしかったので、いい作品が撮れていると思います。編集はこれからですので、私がプレッシャーから解放されることはありませんけれど、きっといい作品になると信じて、ぜひ、お楽しみに!

編成・安永英樹(フジテレビ編成部)のコメント

日本を代表する不世出のコメディアンはどのようにして生まれたのか?若き日の志村けんさんはドリフと出会い、ドリフに入り、壁にぶつかって、学んで、苦労して、どうやって乗り越えてきたのか?知っているようで知らなかった青き時代の志村けんさんの物語を皆さんに見ていただければと思います。俳優の皆さんが“完全再現”した当時のコントはものすごいエネルギーです。ぜひ体感していただければと思います。

プロデュース・井澤秀治(イザワオフィス)のコメント

志村けんさんは、少年時代、普段笑顔を見せない厳格な父親が、テレビを見て、家族で笑いあった経験をきっかけにコメディアンを志しました。そして、ドリフターズの一員として、日本で一番長く、多くの人々を笑わせ、昨年亡くなった今もなお、世代を超えて家族を笑顔にし続けています。誰よりも家族を愛し、誰よりもテレビの前の家族を笑わせることに情熱をささげてきた志村けんと、師であり戦友であるドリフターズの物語を、ぜひ家族そろって笑顔でご覧ください。

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ドラマ「志村けんとドリフの大爆笑物語」のあらすじ・ネタバレ

1968年(昭和43年)2月。一人の青年・志村康徳(のちの志村けん・しむらやすのり/山田裕貴)は当時、お茶の間をにぎわせていた人気グループ、ザ・ドリフターズのリーダー、いかりや長介(いかりやちょうすけ/遠藤憲一)のマンションを訪ね弟子入りを志願する。

運よくドリフターズのボーヤ(付き人)になった志村だったが、待ち受けていたのは数々の挫折と苦悩だった。いかりやをはじめ、加藤茶(かとうちゃ/勝地涼)、高木ブー(たかぎブー/加治将樹)、仲本工事(なかもとこうじ/松本岳)、荒井注(あらいちゅう/金田明夫)にもまれながら、過酷すぎるスケジュールとお笑いに人生を捧げる、志村にとっては想像を絶する日々が始まった。

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ドラマ「志村けんとドリフの大爆笑物語」のキャストコメント

遠藤憲一のコメント

小学校時代、ザ・ドリフターズは見ていたのですが、まさか自分がいかりや長介さんを演じるとは予想もしていなかったので、びっくりしました。強面(こわもて)というところと年齢的なところが起用理由でしょうか。当時、ご本人たちがアドリブでやっていたことを台本に起こして、それを自分たちが演じることはなかなかない難しい経験でした。いい意味でナンセンスなものを作るのが上手な福田監督が、この作品をどのように仕上げていくのか?自分もできあがりが楽しみなので、視聴者の皆さんと一緒に、今から放送を楽しみにしています。

勝地涼のコメント

今回のお話をいただいた時は、とにかくテンションが上がりました。(実際の放送は)自分の世代とはちょっと違うんですが、再放送やスペシャルを見て育ったので。“加トちゃん”という呼び方も、みんなに親しまれている呼び方ですし、僕自身、加藤さんが大好きなので、是非やりたいと思いました。撮影中は、山田君となるべく一緒に過ごすようにして、その時間を大事にしようと心がけました。いかりやさんのセリフに“来週もまた、一生懸命頑張ります!”とありますが、その精神で僕たちもこのドラマに挑んだので、そこが伝わるといいなと思います。

加治将樹のコメント

お話をいただいた時は、“是非やりたい!しかも福田組なの?”という驚きとうれしさで、大イベントに参加できるような感覚でした。高木さんはのんびりしているようなイメージがあるんですけれど、キレがあってリズム感が良い方なので、演じるに当たってそこは意識しました。『ドリフ大爆笑』のオープニングシーンは、一視聴者として子どもの頃から見ていたので、収録の時は、そこに立つことができた幸福感と興奮で、夢の様な時間でした。撮影が終わった時には“役者をやっていてよかった”と本当に思うことができた作品です。

松本岳のコメント

皆さんが知っていて今もご活躍されている国民的スターの仲本工事さんを、僕みたいな未熟者が演じるというのは恐縮な限りだと思っています。今回、事務所の大先輩である志村けんさんとザ・ドリフターズの皆さんの作品に携わることができ、本当に光栄な一方で、当初は不安を通り越して恐怖感がありました。そんな中、ドリフメンバーの皆さんにご報告に伺った際に“ドリフはドリフにしかできないんだから、君なりの仲本工事をやり切ってください”という仲本さんからの激励や、加藤茶さんからの“(仲本さんは)のんびり屋に見えてちょっと格好つけてるところあるからな(笑)”というアドバイスを胸に演じさせて頂きました。楽しんで見て頂けるとうれしいです。

金田明夫のコメント

あこがれのザ・ドリフターズのしかも荒井注さんの役をやらせていただいて、本当に楽しかったです。すてきな思い出になりました。みなさんが知っている実在の人物を演じることは、その人物の気持ちをどのぐらい代弁できるのかなとか、彼だったらどう思ってるのかなとまずは考えます。そして形態模写というよりは性格模写のような感じで気持ちを作っていくのですが、今回はそれを楽しんで演じられればいいなと思って臨みました。ザ・ドリフターズのみなさんが、笑いを一つとるのに、どれだけ頑張って、苦労して、真剣に、真摯(しんし)に向き合ってやっていたかということが、垣間見ていただければいいなと思います。

渡辺いっけいのコメント

小学生の頃、荒井注さんのザ・ドリフターズの時代から毎週見ていました。当時からこの世界に興味があったので、他の子ども以上に好きで見ていたと思います。志村さんが見習いで入ってきて、はじめはあまりうけていない頃からよく覚えているので、今回の出演のお話には感慨深いものがありました。徐々に志村さんがなじんできて、あの『東村山音頭』でのブレイクは子ども心にすごく覚えているのですが、このドラマはそれをきちんと検証しているドラマになっています。“変なおじさん”以降でしか志村さんを知らない世代の人にも、非常に楽しめると思います。お父さんの名前を取って“志村けん”という名前になったということを今回初めて知って、ちょっと鳥肌がたちました。コントのシーンは、僕も一視聴者として、非常に楽しみにしています。

宮崎美子のコメント

私がデビューした当時、志村さんがザ・ドリフターズのコントの中で私のCMのパロディーをやってくださって、何となくずっとどこかで見守ってくださっているように感じていました。何度かバラエティー番組でお目にかかり、10年くらい前に、志村さんと、“お父さん”、“お母さん”とお互いに言い合いながら司会をするバラエティー番組でご一緒したこともあります。いつかまたお目にかかれるという思いでしたので、突然お会いすることができなくなってしまって、本当に残念に感じていました。今回このようなお話をいただいて、みんなに愛された志村さんを大事に育て、その志村さんが大好きだったお母さんの役を演じることができて、本当に光栄で幸せだなと思います。

ムロツヨシのコメント

約1年振りの福田組でございました。短い時間ではありましたが、何とも心地よいと言いますか、ここが僕のホームなんだなと思い出させてくれる時間でした。志村けんさんと加藤茶さんという偉大なるお二人を、山田裕貴さんと勝地涼さんが演じられるいうことで、私なりの応援の方法はないかと思って、出演させていただきました。非常に楽しい撮影でしたし、今日も楽しいおふざけができました(笑)。ありがとうございました。

肥後克広(ダチョウ倶楽部)のコメント

◆今回のご出演のお話が来た時の率直なご感想をお聞かせください。
志村けんさんのドラマが制作中ということを知らず、そして出演のオファーが、コントシーンだとは!もう一生できないと思っていました。ありがとうございます

◆撮影を終えての感想。
コントのセットに久しぶりに立ちました。コントのセットはドラマセットとは、ちょっと違い、バラエティーセットでもない。やはりコントのセットはコントのセットの作りです。その当時のスタッフとも会えました。改めてコントが好きなんだと自覚しました。志村さんに感謝です

◆山田さんと共演されての感想。
若い時の志村さんは見たこともありません。でも多分、若い時の志村さんの素は、こんな人だったろうなと思うくらい山田さんの雰囲気が志村さんと同じ匂いに感じました

◆山田さんが演じる志村けんさんはいかがでしたか?
志村さんは出番が無くてもスタジオにいて、椅子に座ったと思ったらカメラの後ろをウロウロしてました。カメラのアングル、セットの具合、照明、キャストの演技、などなど、志村さんは演者でもあり、監督でもありました。カメラの後ろをウロウロしている山田さんを見て、急に思い出しました。忘れてた記憶が、よみがえりました

◆視聴者の皆様に見どころを含めたメッセ—ジをお願いします。
ザ・ドリフターズの5人はスーパースターです。笑って感動して泣けるドラマです。是非ともご覧下さい。肥後もどこかに出ています。だから肥後も見ます!

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「志村けん」について

「志村けん」は、日本のコメディアン、お笑いタレント、司会者。東村山市名誉市民。

ザ・ドリフターズのメンバーとして活躍する傍ら、亡くなるまで自らが持つ番組でコントを披露し続け、芸能界に大きな功績を残した日本を代表するコメディアンである。生前時は渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに所属していたが、同じザ・ドリフターズのメンバーで、2004年(平成16年)に死去したいかりや長介と同様に没後もイザワオフィスに籍を残している。

1973年までの旧芸名の表記は「志村 健」。ドリフでの初期には「志村 ケン」名義での表記もあった。本名は志村 康徳(しむら やすのり)で、構成作家としては本名名義でクレジットされた。

小学校教諭だった父・憲司けんじ(1918年〈大正7年〉- 1973年〈昭和48年〉)と母・和子かずこ(1919年〈大正8年〉- 2015年〈平成27年〉)の三男として東京都北多摩郡東村山町(現:東京都東村山市)に生まれる。2人の兄(長男・知とも之ゆきと次男・美み佐さ男お)は大学を卒業して公務員になったが、自身は大学へ行かず、異なる人生を歩むこととなった。なお、芸名の「けん」は父の名前から取ったものである。

「志村けん」の小学校時代

変なことばかりやっており、そのきっかけは小学校1年の運動会でウンコをもらしたことで、そのイメージを消そうとおもしろいことをやり始めたという。小学4年の頃は友人宅で落語のレコードを聴き、それを真似て学級会で酔っ払いのコントを初披露している。

「志村けん」の中学校時代

父が厳格な人物で家庭に笑いがなかったため逆に笑いにすごく飢えていたが、当時はまだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才や落語を観ていた時だけは、嫌な日常を忘れることが出来たという。志村によれば「お笑い番組を観ている時だけは、親父も声を出して笑っていた」と語っており、その体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになり、中学生の頃から本格的にお笑いを仕事とすることを決心する。

志村が中学生だった頃の父は教員として毎日決まった時間に職場に行って帰ってくる生活をしており、そんな生活は耐えれないと思っていたという。校長への昇進を目指して勉強に励む毎日を送っており、志村はそれを「つまらない人生だな」と思っていたとのこと。

この頃、自分の小遣いのために家の近所でバイトを経験しており自らを「コツコツ型で努力家」と評している。

東村山市立東村山第二中学校在学中は文化祭でよくコントを披露していたといい、所ジョージの遠戚とバンドを組んだこともあった。ビートルズのファンで、その反骨精神に惹かれて影響(長髪と服装)を受けた。

「志村けん」の高校時代

両親の方針で「お金がかからない都立に行け」との理由から、新設された東京都立久留米高等学校に進学し、同高の第1期生となる。中学校から同高を受験したのは志村を含めて13人で、教師からは「志村は無理だろう」と言われたが、合格したのは志村1人だけだった。同高では気になる女性と同じ時間に下校するためにサッカー部に所属し、ゴールキーパーとして活躍した。

中学に続いて高校でも文化祭でコントを披露しており、腹巻きにステテコの姿で口のまわりを黒く塗って、てんぷくトリオみたいな格好した写真が残っているという。応援団長として、応援にコント55号の動きを取り入れて「なんでそうなるの?」というギャグを取り入れたりもした。校内では仲の良い友達と化学の授業用の白衣で偉そうに先生みたいな顔をして歩いたりしていた。

高校2年生の時に日本武道館でのビートルズ来日公演を観に行っている。高校は制服だったが、ビートルズの影響で長髪にタートルネックで学校に通っていた。

バイトはゴルフ場のキャディや運送屋をしていた。

この頃、父は交通事故の後遺症でボケており弟子入りに関して両親の反対は無かった。

付き人から芸能界デビューを経てドリフターズ入り

1968年2月、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。

由利徹、コント55号、ドリフのいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校2年時に由利徹を訪ねて弟子入りを志願したが、大学に行ったら気が変わると言われ断られている、これがきっかけで高卒で芸能界に入ることを決心する)。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも門前払いされたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「ボーヤ(付き人)」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語っている。

1週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式にドリフのボーヤとして採用を告げられた志村は「じゃあ(高校)卒業したら来ます」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻った。 この時の月給は4500円だった。

脱走
加藤茶の付き人となるも、1年余りで一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをしていた。仲間が伝えるのを忘れていたため、脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻って来た時にはいかりやの家に行きづらかった事から、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人として、加藤家に居候する。

マックボンボン結成、消滅
1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。 動いて笑わす野球のネタや、ゴールデンハーフのネタ、高齢者向けに雲の上団五郎一座のお富さんなどを前座で披露している。

年齢によって内容を変え何があっても客のせいにしないことをモットーとした。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』(『シャボン玉ホリデー』の後番組で、後に放送時間を変更の上で『シャボン玉ボンボン』に改題)に出演が決まり、芸能界デビューが冠番組となる幸運となるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。12月31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)。コンビはその後、自衛隊出身の福田正夫を相方に迎えるが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局自然消滅した。

メンバー見習い
志村はドリフの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入した[注 14]。当初『全員集合』のオープニングテロップは「見習い」と入っていた。

正式メンバーへ
1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日にドリフの正式メンバーに昇格した。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入、及びすわしんじの昇格も検討していたが、志村の順番であったことと、加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時、志村は24歳だった。

「東村山音頭」でヒット
ドリフメンバーとなり、ギターを担当するようになった。ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)は、ギャグがあまりウケず、志村にとってスランプの時代であった。

転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。

当時、メンバーから東村山の田舎者扱いされていた志村は意地になって稽古中に東村山音頭を歌っていたところ、それが受けて舞台で試すこととなった。 初出は1976年3月6日の新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向だった。

そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これに手応えを感じ、さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌った。すると「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与した。

いかりやがツッコミであるドリフではボケを担当することが多いが、マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、いかりやの代役としてツッコミを担当したこともある。『全員集合』の後半コントなどでも、女性歌手や加藤をボケに立て、自身がツッコミに回るコントもあった。カトケンのコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。ビートたけしとコントを演じた際も、たけしのボケに志村がひたすらツッコミで回していた。

また、沢田研二とのコント内でのやり取り、息の合ったコンビネーションが人気を呼ぶ。1979年には加藤茶との「ヒゲダンス」、1980年には「♪カラスの勝手でしょ〜」(童謡『七つの子』の替え唄)が人気を博した。

1981年2月18日、仲本工事、TBSプロデューサーの居作昌果と共に競馬のノミ行為容疑で任意聴取を受け書類送検されたことが発覚。当時の新聞の社会面やトップを飾り、朝日新聞の見出しは「ノミ馬券だョ!全員集合」であった。賭金が多額だった仲本と居作は略式起訴で罰金刑となったが、志村は賭金が1万6千円と少額だったことから起訴猶予処分になった。

この事件で仲本とともに1か月間謹慎となり、以降しばらく『全員集合』などへの出演を見合わせ、当時ドリフ全員で出演していた永谷園のふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。また、『ドリフ大爆笑』で加藤茶とのコントで、加藤の馬を使ったボケに対して「俺あんまり馬で良い思い出ないんだよ」と語り、加藤が苦笑いで「俺随分働いたっけねあの時」と述べたことがあるなど、他のコントでも、加藤が志村に対してノミ行為のことをけしかけて笑いを取るという場面があった。

ピン活動
1985年に『全員集合』が終了し、後番組として1986年に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート。加藤がボケで、志村がツッコミを担当する。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部)との活動が多くなる。この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなるがこれ以降胃潰瘍に苦しむ。

1988年の大晦日には、山中秀樹と共にニュース番組『デイトライン特別版』のキャスターを担当した。

1996年にはゴールデンタイムのレギュラーから深夜枠で『志村〝X〟』『志村〝XYZ〟』『Shimura〝X〟天国』を2000年まで担当した。

死亡説
1996年9月頃、突如として「志村けん死亡説」がパソコン通信などを通じて全国的に流布する。

噂は尾ひれがついて拡大し、「群馬県の赤城国際カントリークラブで急性心筋梗塞を起こし急死した」「尾瀬を観光中に尾瀬沼に落ちて溺死した」「たばこの吸い過ぎが原因の肺がんで、栃木県立がんセンターで死んだ」「栃木県の国道で交通事故に巻き込まれて事故死した」「死んだことは四十九日法要が過ぎてからでないと公表されない(この時期に亡くなった渥美清が遺言に「四十九日法要が済むまで公表するな」と書いていたことからとされる)」「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」などと具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村(康徳)さんは入院していない」という異例の声明を出すに至り、9月28日には本人がインターホン越しに記者会見し、健在をアピールする事態になった。

この件について、志村の付き人兼ドライバーだった乾き亭げそ太郎は、志村のゴールデンタイムの全国ネット番組が終了し、関東ローカルの深夜帯に移り露出が減ったこと。更にスケジュールに余裕が出来たことで目立つリムジンで宇都宮市のゴルフ場へ行くことがふえ、その近所に栃木県立がんセンターがあったことで目撃者が誤解したとしている。

騒動が収まったのち、高木ブーが自身が聞いた発生説として「この時期に『しむらけん』という人が北関東地方で亡くなり、それが志村と混同されたからだ」と語っている(志村の本名は康徳であり志村けんは芸名である)。

その後
1997年後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなっていった。また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3の人気ピークを迎えた。ただし以前のピーク時とは異なり、重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、全盛時と比べれば露出度は穏やかなものだった。

1998年12月30日、『21世紀プロジェクト〜年越し30時間テレビ 今日だけお見せ数々の名番組大集合!〜』後半部では、加藤と共に出演した。

一方、1985年の『全員集合』の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりやや加藤と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていた志村だったが、1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』には出演した。自宅の留守番電話に高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「高倉さんの申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。なお、その映画で担当した役は原作にはないシーンで原作に登場しない人物である。

その後、「鉄道員」出演以降は一部の声優業を除いて映画には1度も出演した事が無かったが、2020年12月に公開される予定だった映画『キネマの神様』にて菅田将暉とダブル主演を務めることが告知され、これにより『鉄道員』以来約20年ぶりに映画出演を果たす予定であった。しかしながら、新型コロナウイルスに感染したことで辞退を余儀なくされ、結局出演を果たせぬまま2020年3月29日に合併症の肺炎で死去した。志村の代役は沢田研二が務めることとなった。

『バカ殿』で共演していた東八郎に「東さんはいい歳になってもなぜ馬鹿な演技が出来るのでしょうか?」と尋ねた時、東から「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面したりするようになったらおしまい」と言われた。志村はこの言葉に深く感銘を受け、東に尊敬の念を抱いていたと何度も発言している。

1990年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。トークバラエティ番組に出た際は歓迎されたが、やはりツッコミが主な仕事だった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴だった)。当初はほとんどがコント用のかつらにメイクをした姿(「変なおじさん」「バカ殿」など)での出演だったが、これはそれまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。

「自分自身のことを語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、2002年5月29日に放送された『わたしはあきらめない』でも語っている。しかし、その後は様々なトーク番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔・コント用メイクのどちらでも出演するようになった。

2000年代になってからは健康オタク、動物愛好家としても知られ、お笑いタレントとしてのみならずコメンテーター的存在としても活動していた。但し、トーク主流のテレビ番組のあり方については、持論として、いくつかの雑誌などでのインタビューで疑問符を投げかけていた。

また、テレビ不況についても嘆いており、自身のコントでも「クイズ番組が多すぎる」「時代劇が不振」と苦言を呈していた。お笑いの賞レースやコンテストで審査員を務める事もあり、コント専門ながら漫才の大会であるTHE MANZAI2014では審査員として出演した。また、歌ネタ王決定戦でも第2回、第3回大会で審査員を務めた。

2001年12月には「けん♀♂けん」名義で、研ナオコとのデュエット曲「銀座あたりでギン!ギン!ギン!」をリリース。さらに翌2002年4月には「バカ殿様とミニモニ姫。」として、ミニモニ。とのコラボレーション・シングル「アイ〜ン体操/アイ〜ン!ダンスの唄」をリリースした(いずれもつんく♂がプロデュースを担当)。

2001年12月、盗撮事件による謹慎が解けたばかりだった田代まさしが、男性宅の風呂を覗き見および覚醒剤所持で再び逮捕されたことに対し、田代の芸能界復帰を支援していた志村は桑野信義と共に「あいつは最低なことをしたのだから芸能界から消えてもらいたい」と田代を突き放すコメントをした。しかし、2009年11月、志村の楽屋に田代が訪れて土下座をしたことを自身のブログで報告し、ブログ上で田代にエールを送った。

2004年4月15日、自身がMCを務める『天才!志村どうぶつ園』が放送開始。元来の動物好き、シャイで涙もろい志村の人柄をそのまま活かし、人気番組となる。

2004年12月7日、東京都三鷹市内の自宅に泥棒が侵入し、時計や宝石類1,000万円相当と現金40万円を盗まれる被害に遭った。本人は会見で「迷惑だねぇ」と困惑の色を隠せなかったが、のちに「ちゃんと仕事して金稼いで下さい」と犯人にコメントし、最後に「だいじょうぶだぁー」と締めた。後に『天才!志村どうぶつ園』でこの事件が取り上げられた際、ペットの犬たちは人懐こいため泥棒に吠えなかったことが明かされ、「番犬にならない」と苦笑した。また、ホームセキュリティに加入していたにも拘わらず、警備員が駆けつける前に盗難被害に遭ったことも話題となった。当時、志村は『発掘!あるある大事典Ⅱ』の収録の為、大阪に行っている最中に起きた出来事である。

2005年、ビートたけしと組んで1時間半のコント番組『たけし☆志村 史上最強の爆笑スペシャル!!』を制作。ダチョウ倶楽部やたけし軍団の一部も参加した。番組の最後には、志村の三味線とたけしのタップダンスの競演が披露された。

2006年4月、「理想のお笑い」を追求すべく、東京芸術劇場で『志村魂(しむらこん)』と銘打った舞台を上演する。前半に「バカ殿様」とコント1本、後半は藤山寛美の作品『一姫二太郎三かぼちゃ』をラサール石井がリメイクした舞台を上演した。

2006年より、自身のブログを更新していた。ブログでは日々の生活などが書き込まれており、60代からは体調の変化について書き込まれることも増えていた。

2007年6月には、東京芸術劇場と中日劇場で第2弾『志村魂2』を上演。第1弾の演目に加え、「津軽三味線」が上演された。

2008年5月から7月には、全国で第3弾『志村魂3』を上演。後半に藤山寛美の作品『人生双六』をリメイクした舞台を上演した。

2009年7月、銀河劇場と中日劇場で第4弾『志村魂4』を上演。2010年7月から8月にかけて、全国で第5弾『志村魂 -初午の日に-』を上演し、後半に『初午の日に』を上演した。2011年7月には、銀河劇場で第6弾『志村魂 -初午の日に-再び!』を上演。

2012年6月から同年7月にかけて、全国で第7弾『志村魂 -先づ健康-』を上演し、後半に『先づ健康』を上演した。

2015年11月23日に「一番のファン」だった実母が老衰のため死去。96歳没。ブログではたびたび「母に感謝す」と記していた志村は「天国からまだまだ応援見守って下さい」などのコメントを発表した。

体調不良
2016年8月19日、肺炎で入院した事が判明した。これに伴い、8月20日および21日に予定されていた公演『志村魂』の大阪・新歌舞伎座公演は中止することになった。その後、8月31日に退院している。それまでは1日に3箱のたばこを吸うほどのヘビースモーカーであったが、この件にショックを受け、その後禁煙をした。

ただ、長年の喫煙習慣が一因となり肺気腫を患ったとされる。また、酒に関するエピソードも数多い一方で2018年に肝硬変と診断され、当時周囲に「バカ殿はもうできない」と弱音を漏らしていた。

2020年2月22日、東京都内で開かれた誕生日パーティーで胃の切除手術を受けたことを告白。その際に志村は詳細を語らず、胃癌だったのではないかと出席者から心配の声が出たものの、所属事務所によると、健康診断でみつかったポリープ切除の内視鏡手術で1月に4日間入院していたとのことで、直接的に仕事に影響を及ぼすことはなかった。

新型コロナウイルスへの感染と死去
2020年3月17日に倦怠感を訴え、自宅で静養。同月19日に発熱と呼吸困難の症状が出始め、翌20日に医師による訪問診察で重度の肺炎と診断され、東京都港区内の病院に緊急入院となった。入院後、21日に人工呼吸器に切り替えた段階から意識はなかった。入院の際に新型コロナウイルスの検査を実施したところ、23日に陽性と判明した。

24日に人工心肺が必要と診断を受けて、新宿区の国立国際医療研究センター病院へ転院してECMOを装着。入院時には肺に影も見られ、一時は気道を確保する気管挿管の処置も取られた。また、同日には保健所による調査で、3月17日が発症日であることと濃厚接触者の特定が完了したが、感染経路については不明とされた。

検査結果を受け、同年12月公開予定だった自身初の主演映画『キネマの神様』のクランクインが延期となり、3月26日、同作への出演を辞退したことを所属事務所が発表した。2020年3月29日23時10分、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に伴う肺炎のため、死去。享年71(70歳没)。

死去の時点で自身の舞台志村魂、志村けんショーの地方公演の予定が組まれていた他、映画主演、朝の連続ドラマに出演が決まっており、俳優業にも本腰を入れて掛かろうとしていた矢先の悲劇だった。志村の訃報は翌30日の9時40分頃から各テレビ局のニュース速報で報道された。

速報が出た当時は大半のテレビ局が朝の情報番組の生放送中であったため、志村の訃報を知って驚く出演者達の様子が映し出された。中でも当時『スッキリ』のレギュラー出演者で、志村とは「志村どうぶつ園」等で共演しており親交があった近藤春菜は生放送中に志村の訃報に接し、大変ショックを受けて号泣した。

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